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海を渡って

3月21日(日)。

時間が経ってしまうと、「どうしてそれを日記に書かなくてはいけないのか」の部分が膨れあがって、「書かなくてもいっか」という気分が全身に広がってくる。でも、時間が経っても、この日のことを書こうという気分が衰えなかった。
それはやっぱり、わざわざ琴平まで伊藤若冲を観に行ったからだと思う。ここ2,3年、いろんなところに行ってみたいという気がどんどん失せて、ほんとうに観たいもの、どうしても行きたいところをわざわざ訪ねる、ということに、情熱を覚えるようになった。それは、脳天気な私にしてついに、「残された時間」というようなことを考え始めたからだと思う。切に思う。

海を渡って_d0020480_18435430.jpgというわけで、黄砂降る春分の日の朝7時過ぎ、田舎の家を出て姫新線で姫路に行く。黄砂のせいでコロナが覆われてしまって、太陽がまるで昼の月のように、山際に白く見えている。
姫路から新幹線に乗って岡山へ。岡山に到着する寸前、「強風のため運休していた瀬戸大橋線は、さきほど動き始めました」と車内放送があった。おおっと、あぶない、あぶない。琴平は香川県。岡山から瀬戸大橋を渡れないと、行くことができない。
それでも、ダイヤの乱れは免れぬか、と覚悟して瀬戸大橋線のホームに行くと、ちゃんと定刻に発車するのであった。しかも、数日前に指定が満席でとれず、自由席で立って行くことも覚悟していたのに、岡山駅を発車するとき、自由席にはまだ空席があった。3連休にしてこの状態。
東京にいると、いつのまにか過密であることを当たり前だと思って暮らしている。岡山は決して田舎ではない。でも、こんなにのんびりしているのだ。

岡山から土讃線の琴平までは、瀬戸内海を渡って特急で1時間足らず。着いたのは10時前で、播州の山の中から金刀比羅さんまで、わずか3時間弱の旅なのだった。
でもこれは瀬戸大橋が開通したからで、私が子どもの頃は、四国に行くにはフェリーに乗るしか手立てがなかった。距離の近さに比して、気分的に遠いところだった。

琴平駅に着いたところで、Nちゃんに電話を入れた。Nちゃんは昨夜琴平のホテルに宿泊したので、今朝は早くから金刀比羅さんに上っているはずだ。案の定、もう上まで上ってしまって、「これから、若冲展の会場まで下りていきます」ということだった。
金刀比羅宮の本宮までの階段785段のうち、477段のところにある奥書院の襖絵が若冲なのである。このたび、京都での大補修を無事に終えて金刀比羅に帰ってきたので、期間限定で公開されている。
たまたま、実家に帰るのと時期が重なったので観に行くことにしたら、Nちゃんもその話に乗ってきたわけなのである。

駅から朝の琴平温泉を抜けて、金比羅宮に向かう。にしても、朝の温泉地というのはどうしてこんなにわびしいのか。3連休だというのに、行き交う人も少ない。じんじんと、さびれている。ソープランドの看板がやけに目につく。
参道を抜け、階段を上りはじめても、そんなに人が多くない。直球ど真ん中の観光地なのに全然観光地らしくなくて、なんだかとても居心地がいい。心配していた長い階段も、全然疲れない。もしかしたら、私はいつも人に疲れていたのか。

奥書院に着いた。チケット売り場の前で、Nちゃんを待つ。会場に入って行く人がひとりもいない。ほとんどの人が「伊藤若冲 特別展」という大きな看板を、「なに?」という感じで一瞥すると、本宮を目指して階段を上って行く。
ああ、いい。すごくいい。こんなにゆっくりと若冲を見られるなんて。
Nちゃんが到着したので、中に入る。靴を脱いで書院の畳を踏む。ここにも、人はやっぱりいない。ドキドキしながら襖の間の前に行く。
しかし……入れない。襖の間の前にしっかりと柵が設けてあり、部屋の中に入れない。しかも、部屋の中は暗くて、遠近両用のよく見える眼鏡に掛けかえてもはっきりと見えない。近くで見られない若冲は、若冲とは言えない。あの、美しい意匠。細かいのにリアルではない、不思議な絵。
海を渡って_d0020480_18231698.jpg

思わず柱に手をかけて、柵から大きく身を乗り出したら、「触らないで下さい」と警備員がやってきた。あ、そうですか、と離れた。でも、満足できない。部屋を出て順路を辿り、もう一度部屋に入って見た。空いているからこういうことができる。それはうれしい。でも、満足できない。保存状態がよくなく、傷みが進んでいたらしい。ライトを当てたり、人を近くに入れたりしたくないのは、分からなくはないです。でも、見えないんじゃダメでしょ。全然ダメです。

満たされず、絵はがきを買った。「花丸図」という件の襖絵、花びらの透けた感じやら、病葉の穴のあき具合、枯れ具合やら、ほんとにリアルではないのに魅力的で、花というよりは宇宙みたいな。若冲には「百犬図」という犬ばかり描いている絵もあるのだけれど、あれも、犬というよりは宇宙だった。何を描いても宇宙。

金刀比羅さんを下りてきて、讃岐うどんが食べたい、というNちゃんと一緒に、うどん屋さんを探した。参道にはいくつかあったのだけれど、なんか、こういうお店じゃなくて、というのを探すと、これがなかなか見つからない。結局、Nちゃんが泊まったホテルのフロントに行って教えてもらったお店へ。
ここです。女将さんともうひとり、気のいい女性がふたりでやっている。「生醤油」を頼むと、うどんに葱とかつぶしとレモンが載って出てきた。これに、自分で醤油をかけて食べる。無駄な味がなく、美味しい。このお店にはなぜかおでんもあって、ものすごく年季の入った出汁が染みたおでんが一串100円。自分で鍋から勝手にとって食する。お勘定は後で串の本数を数えて払う。このおでんがやたら美味しくて、気に入ってしまった。

海を渡って_d0020480_18381057.jpgお店を出て、琴平駅へ。「なんか、ひとり旅だけどふたり旅みたいで、すごく楽しかったです」とNちゃん。そうだね、私も楽しかった。ひとりだったら行かないようなところへも行った。若冲は満足できなかったけど、でも、楽しい3日間だった。「ずっと一緒だと気を遣って疲れるけど、ときどき一緒っていうのはいいですね。これ、大発見でした。これから、実家に帰る人について行く旅を狙います」あはは、いいかも。
じゃあ、私は丸亀城に寄っていきます、といって鈍行に乗り込むNちゃんを見送り、またひとりになった。琴平駅の午後。こんなのどかな街に、若冲がある。
10分後、特急に乗り込んで、再び岡山へ。強い風が吹いたおかげで、朝の霾ぐもりは嘘のように晴れて、青空。瀬戸内海はおだやかだった。
by shino_moon | 2010-04-04 18:46 | 展覧会 | Comments(0)


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