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ノラや

昨日、日暮里から谷中あたりを吟行していると、電柱に「迷い犬」のポスターが貼ってるのを見つけた。1枚や2枚ではない。あのあたり、行く先々の電柱に貼ってあるのだ。きっと飼い主は半狂乱になってたくさん印刷し、手当たり次第に貼って歩いたにちがいない。

犬は立派な大型犬で、体重が36キロもあるという。そんなに大きな犬が迷子になるわけはない。たぶん、犬さらいにさらわれて、どこかのブリーダーに売られたのではないか、と一緒に吟行していたイヨさんと話をした。たとえ飼い主のところに戻れないとしても、だれか心優しい人に拾われるか引き取られるかして、どこかで長閑に過ごしていればいいな、と心から思った。

可愛いウチの娘、猫のナナが、転勤の夫と一緒に四日市へ行ってしまってから7ヶ月が経った。行ってしまった当初、私は、ナナが置いていった玩具を見るだけで涙ぐんだ。仕事が終わって自宅に帰ったときナナがいないことに、心が痛むどころではない、全身が痛んだ。わずか8ヶ月しか一緒に暮らしていない娘なのに、このうつろな気持ちは何だろう。

何だろう、ではない。これはまさしく、立派なペットロスである。

そんなわが身のうちの空洞を埋めるために、この半年で、たくさん猫の本が私の元にやってきた。その中で、とくに何度も頁を開いたものを挙げてみると――――

『猫ヲ祭ル』 千田佳代
『愛しのチロ』 荒木経惟
『猫の本 藤田嗣治画文集』
『ミーのいない朝』 稲葉真弓
『猫にかまけて』 町田康
『長谷川りん二郎画文集 静かな奇譚』
『ユリイカ 特集:猫』平成22年11月号

長谷川りん二郎の画文集は、カバーの絵が猫だというだけの理由で3000円も出して購入したが、ほかの絵もすごく好みだった上に、りん二郎の文章が、力みも嫌みもなくとてもいい文章で、得した気分である。

不思議なことに、可愛い仔猫の写真集とかには食指が伸びないのである。なんというか、著者と猫の間に独特の関係が切り結ばれているようなものを読みたいと思った。でも、そういうものは、猫を失うときのことも書かれていたりするので、つらい。哀しい。そのたびに、また涙ぐむ。

でも、なんと言っても極めつけは、内田百閒先生の『ノラや』である。大昔に一度読んだとき、大笑いした。外に出て帰ってこなくなった愛猫ノラを探して、新聞広告を3回もうつ。心配でご飯が喉を通らなくなる。ノラの寝床だった座布団に顔を伏せて泣く。眠れない。うとうとしても、見る夢はノラの夢ばかり。挙げ句の果ては、風邪で喘息気味に鳴る自分の喉の音を、ノラの泣き声と勘違いしてはっとする。
いい歳をしてこの稚気。変だけど、可愛い爺さん。

しかし、読み直してみて、大笑いしたのは私の若気の至りであったことを知った。こうなって当たり前なのだ。これは、愛猫家すべての抱える煩悩なのである。

百閒先生は、ノラが帰ってきたときの準備も怠りない。お礼の新聞広告、世話をかけた人への礼状、帰ってきたときに開く祝宴の招待状の文面まで用意して、ノラを待った。この愛すべきばかばかしさ。こんなに細やかなことまで考える人だから、眠れなくなったりするのである。自分の姿を戯画化して文章にできる百閒先生の天才には、惚れ惚れするばかり。

『ノラや』を読むと、私の心は安らかになる。ノラは帰ってこなかったけれど、泣いて泣いてノラを待った百閒先生も、もうとうにこの世にない。みんな、いつかは死ぬのだ。この無常。この安寧。

私は、1ヶ月に1度、ナナに会える。それはなんと幸せなことだろう。

こんなふうに、私のペットロスは、幾多の愛猫家たちの文章によって、癒やされていくのである。

詩人・作家の稲葉真弓さんによる『ミーのいない朝』もまた、じつにじつに印象的な猫恋物語だ。これについては、また別に書きたい。
by shino_moon | 2011-02-06 15:11 | | Comments(0)


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