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読書日記

久しぶりに、読書日記を書いてみた。

『大正幻影』(川本三郎)
川本三郎が好きというわけではないのだけれど、なぜかけっこう読んでいる。思うに、川本三郎には少し「ガーリー」なところがあって(この本のタイトルにもほのかにそんな匂いがする)、そんなところが私にとっては身近で読みやすいのかもしれない。

大正文学についての一冊なのだが、そのいささか現実逃避的な、幻想質な面に特化して、しかも、隅田川を背景に置いて、荷風や芥川、谷崎、佐藤春夫、乱歩らを論じている。「花の感受性」とか「志那服を着た少女」とか、目次に並ぶ文字列もどことなくガーリーだ。

前書きで川本三郎が「よく泊まる」と書いている日本橋蛎殻町のホテル(家族だけでやっている小さなホテルらしい)に私も泊まってみようと思って調べたら、もう存在しなかった。この本が出たのが1990年。この下町の小さなホテルもまた「失われた10年」の波にのまれて失われてしまったのだろうか。

なお、私はこの本で佐藤春夫を「発見」した。荷風や芥川、谷崎や乱歩はそこそこ読んでいるけれど、佐藤春夫はたぶん一冊も読んだことがない。そこで、佐藤春夫を買って読んでみた。これが、とても面白かったのだ。


『たそがれの人間』(佐藤春夫)
佐藤春夫の怪談ばかりを集めたアンソロジー。『田園の憂鬱』とかから始めるのではなく(それも買ったけど)怪談から始めたのは、『大正幻影』を読んだ印象として、佐藤春夫には濃厚な幻想気質があり、たぶん、春夫の怪談は面白いだろうと思ったからで、その勘は当たった。

森鴎外の住居だった文京区千駄木の「観潮楼」の門前にあったという春夫の下宿を舞台にした「化物屋敷」や、散歩の途上に出現した怪異現象を口承形式で書いた「歩上異象」なども面白いが、私のツボにはまったのは、芥川、足穂、荷風、鏡花、与謝野晶子など、春夫と交流のあった作家が実名で登場する幻想小説たちだ。自らの交遊録をネタにして、事実を交えながらも大いに怪しく、「永く相おもふ」ではついに晶子を幽霊として登場させてしまった。その自由奔放さったら。「虚実皮膜」とはもしかしたらこういうことなのかもしれない。

ちなみに、本のタイトルになっている「たそがれの人間」は、足穂が春夫に送った手紙をまるごと引用してできあがっているが、どこまでが本当なのか、本当に分からない。

もうひとつちなみに、文京区にある「観潮楼跡」にはいつかの吟行で門前まで行ったが、ゆっくりと見ることが出来なかったので、ぜひ再訪したいと思っている。


『蘆江怪談集』(平山蘆江)
75年ぶりに復刊された、都新聞の演芸記者・平山蘆江の怪談小説集。この本で地味に驚いたのは、歴史的仮名遣いで書かれているのにそれが苦にならない……というか、そのことを忘れて読んでいたことだ。昭和初期の文章ながら現代人が違和感なく読める。美文ではないが成熟した日本語の文章には、感動を覚えた。

もちろん、怪談好きにはオススメの逸品。


『江戸の幽明――東京境界めぐり』(荒俣宏)
東京の消えゆく遺物を、江戸城を中心にして時計回りに、目黒から築地まで、順々に歩いて記した東京歩きの本。副題にある「境界」というのは、江戸時代、ご府内の範囲を示した「朱引」と呼ばれる赤線のことで、荒俣はその「朱引」をひとつの基準としてその内外を歩いている。自分の育った地域である「板橋区」「豊島区」あたりの記載が詳しいところも、東京本としてはなかなかに珍しい。

荒俣の記憶力の良さと博覧強記が一体化した東京案内が、面白くないはずがない。東京歩きをするときは、ぜひ本書を熟読の上、持参されたい。


『ALL IN ONE 吉野朔実は本が大好き』(吉野朔実)
今年4月に急逝した漫画家、吉野朔実の読書マンガ集。

1991年から亡くなる直前の2016年まで、じつに25年もの間『本の雑誌』で連載された読書マンガは、これまでに8冊の単行本として刊行されていたが、それが一冊にまとまった本書は645ページの分厚さになった。本を開いて両手で持つとずっしりと重いが、吉野朔実の不在を思うと、その重さすら悲しい。

吉野朔実は、間違いなく選ばれた天才漫画家のひとりだった。ヒリヒリとした皮膚感覚の内側にある、したたかでたおやかな二重底の心理を、子どもや少女の姿を借りて、確かな画力で描き続けた。そんな作風ゆえ寡作だったし、最後の漫画作品になった『period』では、少し煮詰まっているようにも思えた。

でも(だから)、大好きな本や映画のことを描くとき、彼女の筆は生き生きとしていて、楽しそうだった。大好きな気持ちが溢れていた。読んでいるこちらまでうれしくなった。

彼女の読書マンガは毎回本のタイトルを上げてその紹介をするのだけれど、「書評」ではない。その本の周辺で彼女が体験したり見聞したりしたことや、彼女が疑問に感じたことなどが、まさしく読者の立場から描かれていて、その姿は、同世代の私にとってもまさに「等身大」だった。分かりすぎて可笑しくて、笑ってしまうこともしばしば。

たとえば、いろいろと読みたい本があって、でも今読んでいる本を読み終えるまで待てなくて読み始めて、結局読みかけの本が何冊もできてしまってにっちもさっちもいかなくなるとか。鞄に入っていた本を外出中に読み終えてしまったとき、家に帰れば未読の本が山のようにあるのに、ついまた新しく本を買ってしまうとか。

映画の『地獄の黙示録』を観てピンとこなかったので、原作の『闇の奥』を読んだら「これはすごい!」と感動し、もう一度映画を観なければ、と思って再度観たら、結局、「コッポラが何か勘違いしているということ」しか分からなかった、とか。こう書かれると、『闇の奥』を読まねば、と私も思ってしまう。

急逝直前の、彼女の最後のマンガに、こういう一コマがあった。
「多分私が好きなのは〈本〉そのものであっても〈読書〉ではないんです」
「ではなぜ本を読むのか?それは」
「読み終わりたいからにほかなりません」
それが吉野朔実の本の愛し方だった。そしてこれはそのまま、私のことでもある。

吉野さんが最後に読んでいた本は何だったのだろうか。それは、読み終えられたのだろうか。
by shino_moon | 2016-08-14 00:39 | | Comments(0)


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