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向田邦子

 わがアイドル、である。
 彼女の書いたドラマを見、シナリオを読み、エッセイを読み、小説を読み、あこがれた。彼女が遺したものはあらかた読み尽くし、彼女の死によって、もう二度と新作を読めなくなったことをやっとアタマで理解したのちも、彼女の書いたものを渇望した。20歳代前半のころだ。
 向田邦子を渇望したのは、テレビ・出版の世界も同じだった。テレビディレクターの久世光彦は、彼女の死後20年間、原作エッセイをもとに「向田邦子ドラマ」をつくりつづけ、生前放送されたドラマは別のライターの手でノベライズされ、家族による随筆が出版された。つい最近には、彼女が愛した人とのロマンスが妹さんによって明かされ、人間観察の名手の、じつは聞くものの胸が痛くなるほど男性に尽くした素顔が紹介されもした。

 向田邦子は、ものを斜めに見る達人だった。
 ドラマづくりに〈裏読み〉は必須だ。しかし、見慣れてくれば、たいがいの人は裏を読めるようになる。裏にもパターンがあるからだ。最近ではむしろ、視聴者が裏を読むことを最初からある程度想定して、テレビドラマがつくられている傾向すらある。ただし、表と裏の関係がパターン化されればされるほど、ドラマはつまらなくなる。
 向田邦子のドラマは、単純な〈裏読み〉では歯が立たない。思わぬところから、ぐさり、とやられる。たんなる強がりだと思って見ていると、得体の知れないしたたかさにすり替わっていたりすることもよくある。あっ、そうきたか、と脱帽する。
 彼女の描く人物は、じつに多面体なのだ。人間ひとりひとりのちがいを、天才的複眼的視点で見分け、登場人物に投影する。そのため、演じる役者にとってさえ、ときに耐えがたいリアルさ、辛辣さが顔を覗かせることにもなった。
 『阿修羅のごとく』の収録中、父親役の佐分利信が、あまりにだらしない父親像に立腹して、台本を投げ捨てて帰ろうとした、というのは有名な話だ。うふふふふ、と思わず笑ってしまう。
 でもそうした辛辣さは、女からは圧倒的に支持された。なぜなら、彼女の書く女性像は、それがどんなにリアルでキビしいものであっても、それぞれがどこかしら女にとって等身大であり、本音であり、なにより「男から見た女性像」から自由だったから。
 それでも、不思議なことに、向田邦子を嫌いだ、という男性の話を、あまり聞いたことがない。前述のロマンス話からも窺い知れるように、深いところで優しく、気配りのできる人だったのだろうと思う。

 好きなエピソードがある。
 たしか、作家の山口瞳が書いていた話だったと思う。何人かで夜を徹して飲み、話し、酔っぱらい、ぐたぐたになって「そろそろ、閉宴」となった明け方、向田邦子は晴れ晴れと言ったという。「ああ、楽しかった。さあ、帰って仕事しなくちゃ。今日が締め切りなのよ」時刻は、午前5時ごろ。その場にいた男性陣は、全員驚愕し、脱力したという。
 そうした状況で生み出される作品のクオリティについては、周知のとおり。
 豪傑というのでもなく、まじめというのでもなく、なんだろう、なんともしなやかで、カッコイイ。
 永遠に、わがアイドル、なのである。 
by shino_moon | 2005-05-02 09:41 | その他 | Comments(0)


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