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 1984年から1991年まで、杉並区の下井草というところに住んでいた。一軒家の1階にあった3部屋を3人でシェアし、トイレと浴室が共同、というところだった。もともとこの建物に住んでいた大家さんが、同じ敷地内に自宅を新築し、使わなくなった家を他人に貸すようになったのがはじまりだという。場所柄、最初は早稲田の学生が多かったようだが、だんだんいろんな人が住むようになり、そういうところへ、ひょんなことから私がころがりこんだ。
 家賃は月14000円。ときはバブル前期。杉並区で浴室付きワンルームを借りると、7~8万円はした時代だ。

 じつは、ここに住んでいた7年間、一度もこの部屋に鍵をかけたことがない。毎日鍵をかけずに外出し、鍵のかかっていない部屋に帰宅した。それで、空き巣に入られたことは1度もない。盗られて困るような高価なものもなかったけれど。もちろん、自室に入ると、中からは鍵をかけた。部屋にいるときにだれかが入ってくると怖いものね。でも、その鍵にしても、先の少し曲がった金属をワッカに引っかけるだけという、鍵というにはあまりにも簡便な代物だった。
 ちなみに、この家の構造はこうだ。一軒家の玄関を入ると、踊り場があり、右が共同の炊事場、左の奥に2部屋と1部屋が向かい合う状態で位置し、そこに3人の住人が住んでいる。この建物自体の玄関は住人共通で使用したが、ここにも鍵はなく、靴を脱いで上がると、自分の部屋の入り口にも鍵がない。
 つまり、私の留守中、忍び込む気になれば、だれでもそのまま部屋の中まで侵入できるわけである。実際、新聞と郵便の配達員は、毎日建物の玄関を勝手に開け、下駄箱の上に3人分のブツを置いていった。しかし、7年間、なんの問題も滞りもなかった。

 昭和30年代ぐらいに建った感じの木造建築だった。道から少し引っ込んでいて、広いとはいえない庭には植物が鬱蒼と茂り、わが建物の入り口あたりには蔦が垂れ下がっていて、いささか近寄りがたい雰囲気ではあった。しかも、同じ敷地内には大家さんの住む建物もある。この大家さんの自宅は3階建ての鉄筋コンクリートビルで、2階は大家さんの経営する会計事務所だった。
 とにかく古い建物だった。サッシではなくて木の窓枠だった。大家さんが庭で焚火をすると、煙が窓の隙間から部屋の中まで入ってきて、燻されたような匂いが充満した。私の部屋にだけは6畳間に専用炊事場がついていて、それがよかったので、この部屋を借りたのだった。狭いながら押入もあり、炊事場には壁一面の収納もあった。

 空き巣にとって不都合だったのは、3人の住人の生活時間帯がまちまちだったことではないかしら。向かいに住んでいた人は物書きで、昼間部屋にいて、夕方から出かけることが多かった。隣の住人は、番組製作会社で照明かなにかの仕事をしていて、徹夜仕事の翌日は終日寝ていたり、つまり生活時間帯が不規則だった。私はといえば、そのころはふつうに朝家を出て夕方には帰ってくるという生活だった。つまり、24時間、ほぼいつも3人のうちのだれかが部屋にいる状態だった。
 各部屋の入り口は、鉄の扉ではなく木の扉で(もともと一軒家の1部屋だったわけだから、当然といえば当然だ)、建物の玄関を入ると、なにとはなしにあたたかい住人の気配というものがあった。これも、空き巣が狙いにくかった理由のひとつかもしれない。

 7年間、住人同士のトラブルは1度もなかった。他人の生活を覗き込むような人も、住居にもめごとを持ち込むような人もいなかった。特別に面倒な付き合いもなかった。
 つまり、安全でありながら、プライバシーはきちんと守られていたのである。

 『建築はほほえむ』(松山巌著・西田書店)という本をいま読んでいる。その中に、「さまざまな恐怖に抗するために建物や街はつくられてきた」というくだりがあった。そうかもしれない、と思いつつ、かつて住まった家のことをふと思い出した。
 あの時代にしては希有な暮らしだった、と思う。
 今だから話せることである。
by shino_moon | 2005-05-06 09:52 | | Comments(0)


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