Belle Epoque
2024-03-10T00:22:24+09:00
shino_moon
映画のこと、映画にまつわること、映画に関係ない身辺雑記、など。
Excite Blog
落下の解剖学(2023年)
http://epoque.exblog.jp/29932543/
2024-03-05T17:14:00+09:00
2024-03-10T00:22:24+09:00
2024-03-05T17:16:14+09:00
shino_moon
映画(ラ行)
完全ネタバレしているので、これから観る方はご注意下さい。
夫が雪の山荘で転落死し、現場にいた妻のサンドラが容疑者として逮捕される。当人以外にふたりのようすを証言できるのは、視覚障害のあるひとり息子のダニエルだけ。それ以外に証拠となるものはなにもない。さて、どうするのか。
裁判で夫婦の秘密や闇がいくら暴かれても、私にはサンドラが夫を殺したようには思えなかった。彼女は精神的に自立した人物で、夫を殺さなくてはいけない理由がない。逆に、思い通りの人生を描けない夫には、自分で自分を追いつめてゆく姿が十分に想像できた。
ただ、夫が死んでいる状況で、夫婦の問題を語れるのはサンドラだけなので、サンドラ視点であることは否めない。サンドラが強すぎて夫の心を痛めつけたことも十分に理解できる。それに、冒頭のシーンでのサンドラのインタビュアーに対する態度はあまり感じのよいものではなかったし、裁判に勝利した後のサンドラも、不自然といえば不自然だった。有り体にいえば、観客を「ミスリードしよう」という意図が透けて見えた。
結果、サンドラを怪しいと思う観客がいるだろうことも分かるし、実際、そういう感想もたくさん目にした。
「見えている姿」だけで判断することのむずかしさが、そこにはある。だから、裁判の結果とは別に「実際はどうだったのか」を描くことは、やっぱり必要なのではなかろうか。
そこを描かないこの映画は、「人間を見る目」を観客に問うだけで、答えない。「どうぞ自由に解釈して下さい」は、映画にアリだと私は思っているけれど、この映画で試されているのは「人物をどう見るか」という視点の問題であり、これだけ多様な問題を含んだ関係の中でそれを観客に委ねることは、いまや思想や倫理観にも繋がってくる。だからもやっとするのだ。
結果的に母を救うことになる息子のダニエルの行動も、「大人の社会構造」を理解する途上での驚くべきアイディア。夫婦の地獄を見せつけられる彼の心をいたく心配しながら観ていたが、少しほっとしつつ、母親の強さを受け継いだんだなあ、としみじみする。今後どうなるかは未知だけれど。
ダニエルの相棒、愛犬のスヌープも名演技だが、できれば動物にあんな負荷をかけないでいただきたい、とも思う。
弁護士役のスワン・アルローの色気と信頼感の同居は、なかなか得がたいキャラクターだ。
あと、フランスの裁判ってあんなにゆるいのか。裁判官そっちのけで検察官と弁護士がやりあったり、被告人が突然しゃべり出したりする。検察官は証拠でも何でもない「別の状況での会話の録音」から被告人の人間性を一方的に決めつける。自由すぎて笑いそうになった。
監督:ジュスティーヌ・トリエ
出演:ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、アントワーヌ・レザルツ、メッシ(犬) ほか
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ペーパーシティ 東京大空襲の記憶(2021年)
http://epoque.exblog.jp/29932535/
2024-03-01T17:11:00+09:00
2024-03-05T17:12:48+09:00
2024-03-05T17:12:48+09:00
shino_moon
映画(ハ行)
監督は日本在住15年のオーストラリア人、エイドリアン・フランシス。オーストラリア映画。東京大空襲70周年の時期に被災者のインタビューを開始し、足かけ7年の歳月をかけて完成させたドキュメンタリー作品だ。
フランシス監督が東京大空襲のことを初めて知ったとき、それが、世界でも類をみないほどの死者を出した空襲でありながら、東京にその痕跡が残されていないことを疑問に思ったそうだ。調査も検証もされず、死者の氏名も、人数すら正確には分からず、戦後の保障もなく、国の作った慰霊碑すらない。それがこの映画を作った理由だという。
戦後生まれの日本人のアイデンティティに「空襲の記憶」がない。そうかもしれない、と思う。でもそれはどうしてなのだろうか。
おそらく、故郷のオーストラリアはもちろん、欧米ではそんなことはありえないのだろう。海外の視点から日本を観ることで気づくことがたくさんある。その重要性を、最近ことさら強く感じる。
この映画は、「反戦」にとどまらず、いろんなことを考えさせてくれる。今の社会のありようや仕組み、記憶を受け継ぐこと、街が街であり続けること、政治の劣化etc.
「ペーパーシティ」は、あのころの日本の家が主に木と紙でできていたことを指しているが、記憶がさまざまな「紙」の記録によってなんとか保たれているというメタファーも込められている。
空襲の被害を受けた下町、墨田区のStrangerで、3月10日の記念日を前にこの映画を上映するという企画。1週間の限定上映。見終わったあと、映画に出てきた森下、三ツ目通りをぶらぶら歩いて帰宅した。
こうした企画はこれからもどんどんあってほしい。
監督:エイドリアン・フランシス
出演:清岡美知子、星野弘、築山実 ほか
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ミレニアム・マンボ(2001年)
http://epoque.exblog.jp/29932530/
2024-02-29T17:08:00+09:00
2024-03-05T17:09:41+09:00
2024-03-05T17:09:41+09:00
shino_moon
映画(マ行)
新世紀を迎えた台北の夜を生きるスー・チーの生々しい存在感をフィルムに焼き付けた、ホウ・シャオシェン後期の作品。長回しと電子音楽。男に疲れ、ナイトクラブで浮遊するスー・チーが体現する、あのころの〈青春〉。ひたすらスー・チーを慈しむ映画だ。
この映画自体は初見だったけれど、スクリーンにスー・チーがいた記憶が、21世紀の始まりの空気を鼻腔に甦らせて、ひたすら懐かしい。
スー・チーは1990年代の後半に登場して、香港映画に多数出演した後、ホウ・シャオシェンと出会った。このあと『百年恋歌』(2005年)と『黒衣の刺客』(2015年)でホウ・シャオシェンの映画に出演しているけれど(この2本は観ている)、香港映画でのスー・チーの方が、私はむしろなじみ深い。
三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』はこの映画に影響を受けていると聞いて、ああ、なるほど、よく分かる。もう一度かの映画も観たい。
スー・チー主演の『百年恋歌』も再映してくれないかなあ。
監督:ホウ・シャオシェン
出演:スー・チー、ガオ・ジエ、トゥアン・ジュンハオ、竹内淳、竹内康、ニョウ・チェンツー ほか
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王国(あるいはその家について)(2018年)
http://epoque.exblog.jp/29932525/
2024-02-28T17:06:00+09:00
2024-03-05T17:17:27+09:00
2024-03-05T17:07:15+09:00
shino_moon
映画(ア行)
ひとつの映画台本をもとに、本読み、立ち稽古、リハーサルと、3人の俳優がそれぞれの役のセリフを口にする行為をさまざまなパターンで繰り返しながら、俳優たちが少しずつ「役」の人物に近づいてゆく過程を撮影した、きわめて実験的な映画。
ただそれだけなのだが、まったく退屈しなかった。棒読みだった読み合わせからリハーサルを経て、再び読み合わせに戻ったときに、動きがないにもかかわらず明らかに俳優が「その役」の人物に見えて、こちらの感じ方までが変化している。
俳優の変化を追う「ドキュメント」と、俳優が演じる「劇」が、同じ地平で描かれる斬新さと面白さがある。
アキ(澁谷麻美)とノドカ(笠原智)とナオト(足立智充)の3人が登場人物。アキとノドカは幼なじみの親友で、ふたりの間には特別な絆(=王国)が存在していたが、結婚したノドカとナオトとの間には、夫婦ならではの関係(=これも王国)がすでに出来上がっていた。ノドカの自宅を訪ねたアキは、ノドカに対するナオトの態度に支配的なものを感じて、ふたりの関係に口を挟む一方、ナオトはアキのノドカに対する思い入れにふつうではないものを感じ、排除しようとする。その結果、悲劇が起こる。
この「距離感」のなさは正直辟易するタイプの人間関係で(『夜明けのすべて』が表現したものと正反対の関係)、登場人物を好きにはなれないのだけれど、シーンの繰り返し、カットの積み重ねで、人物への苦手意識はしだいに後退し、人物を支配する「王国」が透けて見えてくる。それがとてもスリリングだ。
草野なつか監督の映画は初めて。脚本は濱口竜介の『ハッピーアワー』を書いた高橋知由。
興味はあったが、ポレポレ東中野での夜の上映はなかなか足を運ぶのに敷居が高かったので、Strangerが上映してくれたのはほんとうにありがたい。運営が変わって、プログラムの変化も感じているけれど、公開館の少ない邦画の上映はこれからも大歓迎したい。
監督:草野なつか
出演:澁谷麻美、笠原智、足立智充
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瞳をとじて(2023年)
http://epoque.exblog.jp/29907087/
2024-02-24T12:54:00+09:00
2024-02-24T12:54:10+09:00
2024-02-24T12:54:10+09:00
shino_moon
映画(ハ行)
圧倒的すぎて、なにからどう書いていいのかわからない。けれど、とにかく思いつくままに書いてみようと思う。
●「まなざし」の映画として。
この映画のかなりの部分を、会話するふたりの人物の顔の「切り返しショット」が占めている。意識に残るほどの切り返しの多さで、たいていの映画なら途中で飽き飽きして「動いて!」と呟きたくなってしまうのだけれど、3時間に届こうという長さなのに、この映画では飽きない。人物たちの「まなざし」の雄弁さが、記憶をたぐり寄せ、時間を引き寄せるからだ。
そういえば、映画のなかで語られ、上映される映画内映画のタイトルも『別れのまなざし』だ。『瞳をとじて』というタイトルと対立しているようだけれど、閉じられることによって初めて、「まなざし」は「それがまなざしであったこと」を証明する。
ミゲルも、アナも、ロラも、介護士も、そして中国人少女の上海ジェスチャーも、どのシーンもそのまなざしとともに記憶されてゆく。
では、人はなんのために「瞳をとじる」のだろうか。
見えないものを見るために。精霊に会うために。父の魂を呼び戻すために。祈るために。
●「記憶」と「再会」の映画として。
本作の公開に併せてリバイバル上映された『ミツバチのささやき』(1973年)と『エル・スール』(1983年)は、それ自体が伝説的な映画なのだけれども(エリセの寡作ぶりがそれに拍車をかけたとはいえ)、『瞳をとじて』がこの2本を踏まえてつくられている、その踏まえ方を実際に体感してみると、エリセはこの30年、ただ沈黙していたわけではない、その間も映画をつくるための人生が監督のなかで継続していたのだとふっと思う。
それは、移動映画館の記憶やアナのセリフやエストレリャの名前が登場するという細かい引用はもちろんだけれど、この映画の骨格そのものが、前2作、ことに『エル・スール』への「アンサー・シネマ」として完成しているように思えるからだ。
『エル・スール』はそれ自体で完結している物語だけれど、製作費の問題やトラブルで前半しか撮影できず、ついにあの映画では描かれなかった「父の秘密」を、『瞳をとじて』の主人公ミゲルは「消息を絶った俳優を捜索する」という形で追いかけ、見つけ、彼の娘に目撃させている。
『ミツバチのささやき』では幼いアナにとっての「父=逃亡兵士=精霊」として描かれているが、前2作で描かれた「父と娘」を『瞳をとじて』で反復し、『エル・スール』では「父殺し」とすら見えかねなかったその関係をおだやかに掬い上げた。
その方法として「映画内映画」いう離れ業を使うのだから、もう何も言えない。「完成しなかった映画」のラストシーンを一同で観るのがこの映画のラストシーンという「入れ子構造」は、スクリーンの中と外の両方にいる「父と娘」を、さらに観客が観るという「奇跡」になっている。
●「映画」の映画として。
『瞳をとじて』の軽やかさは、「引用」のさりげなさにも起因するのではなかろうか。それは『ミツバチのささやき』と『エル・スール』にとどまらない。
主人公のミゲルと撮影監督の会話に出てくる「ドライヤー以後に奇跡はない」というセリフ。ミゲルと映写技師の会話に出てくる「移動映画館」の記憶。もしかしたら、『フランケンシュタイン』を携えてアナの村にも行ったかもしれない。映写技師の「昔はイタリアの撮影隊がやってきてここで試写をしたもんだ。たしか西部劇を撮ってたな」というセリフ。たしかに、マカロニ・ウエスタンの大部分はスペインで撮影された。もしかしたらそこには、駆け出しのクリント・イーストウッドがいたかもしれない。
もうそれだけで、泣きそうになる。
ミゲルが住んでいるトレーラーハウスの、風を感じるルックもいい。トレーラーハウスが集まっているスペースの入り口の感じが西部劇を思わせたり、ギターを奏でながらミゲルの歌う英語の歌が『リオ・ブラボー』の挿入歌だったり。聞くところによれば、エリセは西部劇が好きなのだそうだ。
リュミエール兄弟の誰でも知っている映像「駅に入ってくる機関車」もあった。
私が気づいていない引用がもっとほかにもあるだろう。
映画内映画『別れのまなざし』の中にも「悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)」や「上海ジェスチャー」などの、引用元があることを知らなかった蠱惑的な引用もあって、そのすべてを知り、堪能し尽くしたいという欲望にとらわれそうになる。
そしてすでに書いたように、この作品は「映画」を観るというラストシーンをもつ映画なのだ。エリセがどれだけ映画を信頼していたか、映画制作を捨てていなかったか。
映画ファンにとってはそのことが一番うれしいし、感動してしまうのだ。
監督:ビクトル・エリセ
出演:マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレント、ペトラ・マルティネス、マリオ・レオン、エレナ・ミケル、ソレダ・ビジャミル、ベネシア・フランスコ ほか
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すべて、至るところにある(Everything,Everywhere)(2023年)
http://epoque.exblog.jp/29907083/
2024-02-16T12:50:00+09:00
2024-02-24T12:52:00+09:00
2024-02-24T12:52:00+09:00
shino_moon
映画(サ行)
監督のリム・カーワイ自身を思わせる映画監督のジェイ(尚玄)は、バルカン半島で出会ったバック・パッカーのエヴァ(アデラ・ソー)を主人公に映画をつくるが、ジェイは撮了と共に姿を消し、消息を絶ってしまう。その後、世界中がパンデミックに見舞われ、ヨーロッパで戦争が起こる。
パンデミックが収まった頃、ジェイが残したメッセージを頼りにバルカン半島を再訪して彼の消息を探すうちに、エヴァは、自分が出演した映画が『いつか、どこかで(Somewhen, Somewhere)』というタイトルで完成していたことを知る。
ストーリーはおおむねそういうことだが、この映画のユニークなところは、リム・カーワイが「漂流者(シネマドリフター)」と自称する旅人で、実際にその土地を旅しながら、その場所の空気やリアルな瞬間をそのまま即興的に映画に取り入れてゆくという制作手法でつくられているというところだ。
こういう精神、こういう手法でつくられたフィクション(ドキュメンタリーではなく)をこれまで観たことがなかったので、リム・カーワイには以前から興味があった。
カーワイはマレーシア生まれで、大阪を拠点にして活動しているが、「帰属意識」がない彼の映画には、観客を開放するマジックのような風が吹いている。バルカン半島という、自分とは縁もゆかりもない土地や人々、風景を引き寄せ、観客の近くに置いてゆく。
その中にゆるぎなく存在するのは「映画の力」へのカーワイの信頼だ。タイトルの“Everything,Everywhere”というのは、つまりそういうことではないのだろうか。
この映画を見終えた観客は、世界地図を出してきて、北マケドニアとボスニアとセルビアの位置を確認し、そこでかつて何が起こったのかを知りたいと思うだろう。ジェイが映した旧ユーゴの巨大建造物「スポメティック」を、自分も見たいと思うだろう。
アデラ・ソーの出演した前作『いつか、どこかで』(2019年)をそのまま今作の素材として使うところにも、インディーズ映画ならではのたくましさを感じた。
昨年、カーワイの『あなたの微笑み』を見逃したのが心残りだったのだが、もし一挙上映特集があれば、迷わず駆けつけたい。
監督:リム・カーワイ
出演:尚玄、アデラ・ソー、イン・ジアン ほか
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エル・スール(1983年)
http://epoque.exblog.jp/29907078/
2024-02-15T12:47:00+09:00
2024-02-24T12:49:03+09:00
2024-02-24T12:49:03+09:00
shino_moon
映画(ア行)
上映時間が半分ぐらい終わったところで、明らかに『ミツバチのささやき』(1973年)とは違った作り方をしていることを実感した。アナが主人公だったせいもあるが、セリフが少なく、「ショットの鬼」と言いたいような素晴らしいショットの連続だった前作と比べると、この映画には、何かを物語ろうとする「ドラマ性」を感じる。モノローグもダイアローグも多い。このスピードでは、95分で終われない。
エリセ監督の目論見では2時間半を超える予定だった本作は、何らかの都合で後半が製作されず、前半だけで編集され、公開されている。
人生観や思想の違いなどで実父と仲違いして、生まれ故郷のスペイン南部から北部へやってきた父親アグスティン(オメロ・アントヌッティ)と、心を明かさず、決して故郷へ帰ろうとしない父親から何かを感じている娘のエストレリャ(ソンソーレス・アラングレンとイシアル・ボリャイン)。父の死後、エストレリャが南へ旅立つシーンで映画は終わる。
39年前に観たときは、これはこれで十分に完結していると思ったし、父親の謎が謎のままであることにさほど違和感はなく、余韻を感じていた。
けれども、今回はラストシーンが消えたとき「その先を観たい」と思った。これだけでは、父の自死がうまく着地できない。もちろん、『ミツバチのささやき』と同じように内戦によって傷ついた人物であることは間違いないだろうし、それが父親の纏う空気の沈鬱さの一因でもあろう。でも、観ようによっては、エストレリャが引き金を引いたようにも見える。もっと何かがあったはずだ。後半があってこその前半だったはずだ。
とはいえ、いまさらどうにもならない。『ミツバチのささやき』の完成度が高すぎるので、よけいに残念に思うのかもしれない。
というようなことを感じつつ、心はすでに新作『瞳をとじて』へ向かっている。
監督:ビクトル・エリセ
出演:オメロ・アントヌッティ、ソンソーレス・アラングレン、イシアル・ボリャイン、オーロール・クレマン、ヘルマイネ・モンテーロ ほか
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夜明けのすべて(2024年)
http://epoque.exblog.jp/29869382/
2024-02-11T21:51:00+09:00
2024-02-12T21:53:15+09:00
2024-02-12T21:53:15+09:00
shino_moon
映画(ヤ行)
いい。すごくいい。
恋愛とも友情とも優しさとも違う。見返りをいっさい求めない気持ち、「こんな自分でも、少しは誰かを助けることができる」という当たり前の気持ち。考えてみれば、無意識に、多くの人が持ち合わせているこんな感情を、しかも、嘘っぽさのない描写で分かりやすく描いた映画が、これまでほとんどなかったことに驚く。
ああ、映画って、こんなこともできるんだ。
PMS(月経前症候群)に悩む藤沢(上白石萌音)とパニック障害の山添(松村北斗)。まだ若いふたりには希望も野心もあるけれど、人に言いにくい病で諦めなくてはならないことがたくさんあった。
でも、彼らが諦めたことは、本当に人生途上の最重要事項だったのか。そこに幸せはあったのだろうか。
今の職場で知り合った藤沢と山添は、病を抱えながら、今、目の前の困難を乗り越えながら、さまざまなことを知ってゆく。
藤沢と山添を演じたふたりが、本当にいい。観客にとっても、隣に座っている職場の同僚のような、久しぶりに会った幼なじみのような、昨今よく耳にする「大切な人」でも「特別な人」でもなく、近すぎず遠すぎず、でも、困ったときは助け合おうと思える関係。ことに、上白石萌音の持っている存在感のさりげなさは、得がたい才能だ。
ふたりの周囲の人々の描き方も秀逸で、正面から彼らの表情を撮ることは少なく(ないわけではない)、画面の隅の方に映り込んでいるだけで、彼らの思いやふたりとの穏やかな関係性を推測させる。じつは、みんながいい距離を保ちながら、助け合っている。三宅唱のこういう人間の撮り方が好きだ。
三宅監督の映画は3本目。『きみの鳥は歌える』(2018年)も『ケイコ 目を澄ませて』(2022年)もすごくよかったけれど、今回はもっとも分かりやすく、受け入れやすい人間賛歌になっている。
「夜明けのすべて」の意味も映画を見終わると分かり、あらためて「ああ、いいタイトルだった」と思えるのもいい。
監督:三宅唱
出演:松村北斗、上白石萌音、渋川清彦、芋生悠、久保田磨希、藤間爽子、足立智充、りょう、光石研 ほか
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ノスタルジア(1983年)
http://epoque.exblog.jp/29869377/
2024-02-10T21:48:00+09:00
2024-02-12T21:50:12+09:00
2024-02-12T21:50:12+09:00
shino_moon
映画(ナ行)
当時、作品への没入感がすごくて、これほど相性のいい監督はほかにはいないかも、と思ったのだが、今回、その没入感がついに1度も訪れず、その分、画面やセリフに注意が向いたのはとてもよかった。
睡魔が来ないのは当時と同じで、相性がいいのは間違いないのだろう。
それにしても、この「終末観」のすさまじさ。主人公のアンドレイ(オレーグ・ヤンコフスキー)はタルコフスキー自身の投影と見ていいと思う。大きなテーマを描いていながら、全体に漂う空気には「自己」への遡及が強く感じられる。そこに「すぽん」とはまったら、観客は没入してしまうのかもしれない。
タルコフスキーはこの映画の撮影のためにイタリアに出向き、そのままソ連から亡命している。
アンドレイと、イタリア人通訳の女性エウジュニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)のやりとりのどうしようもない断絶を見ながら、「母=聖母」の追憶にしか女性を見いだせなくなったアンドレイの「ノスタルジア(望郷)」の重さに疲れる。彼は世界の終末を説くドメニコ(エルランド・ヨセフソン)とは親和に近い感情を持つが、ドメニコの役回りが異性であるという図を、この映画では想像できない。
これは別にタルコフスキーに限ったことではなくて、シャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』(1978年)では、アンナの孤独な彷徨に男性との親和は考えられなかった。
美しいショットの中に差し込まれたかのような「リアル」に、私は逆に「映画」を感じる。ドメニコが焼身自殺する瞬間、突然はっと身じろぎし、主人に向かって吠える愛犬。干上がった温泉を蝋燭を捧げて渡るアンドレイの、蝋燭の火が消えないように息を詰めているようす。
風景の美しさに「イタリア」を感じたけれど、なぜだか、「ロシア」を撮っているタルコフスキーを観たくなった。ぜひほかの映画も4K上映を求む。
監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:オレーグ・ヤンコフスキー、エルランド・ヨセフセン、ドミツィアナ・ジョルダーノ ほか
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ミツバチのささやき(1973年)
http://epoque.exblog.jp/29869372/
2024-02-08T21:46:00+09:00
2024-02-12T21:47:31+09:00
2024-02-12T21:47:31+09:00
shino_moon
映画(マ行)
年月を経ても古びない、いやさか、観るたびに艶と輝きを増しているようにさえ思わせてくれる大傑作。
どうしたってアナ・トレントの無垢な瞳の印象が大きすぎるのだが、すべてのシーンの、画面の隅々まで、映画としての輝きに満ちている。不必要なシーンはないのに、豊かな空白がある。何なんだ、これは。これがビクトル・エリセの処女作だなんて、すごすぎる。
映画の巡回上映、初めて観る「怪物」、内戦の傷、蜂の巣の模様の窓、逃亡兵士、猫、焚火、現れる精霊。現実とフィクションの天秤は、アナの前で大きく傾く。
内乱直後のスペインが舞台。公開時はまだフランコ独裁政権時代だったという背景を持つゆえ、随所に政権や社会への不安や批判が暗喩として埋め込まれている。けれども、それをひとつひとつ検証する必要はない。名作は、ただひとつのことに奉仕するのではなく、観る人ひとりひとりの心になにかを残してゆく。普遍性とはそういうことではないか。
ラストシーンのアナ・トレントが置いていった余韻を、明日から公開の監督最新作『瞳をとじて』で確かめられる。そして、エリセの2作目『エル・スール』(1983年)も公開中。なんと幸福な2月であることよ。
※先日観た『哀れなるものたち』は、「フランケンシュタイン」の物語の、時代に即した一種の「読み替え」のようなものではないかと思う。ということで、この映画の中で巡回上映された『フランケンシュタイン』(1931年)も近いうちに観ておきたいと思う。
監督:ビクトル・エリセ
出演:アナ・トレント、イザベル・テリェリア、フェルナンド・フェルナン・ゴメス、テレサ・ヒンペラ、ホセ・ビリャサンテ、ジアン・マルガロ ほか
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Here(2023年)
http://epoque.exblog.jp/29869365/
2024-02-06T21:43:00+09:00
2024-02-12T21:44:44+09:00
2024-02-12T21:44:44+09:00
shino_moon
映画(ハ行)
シュテファン(シュテファン・ゴタ)はブリュッセルに住むルーマニアからの移民。建設現場で働いている。長期休暇をとって故郷に帰ることになったが、アパートを引き払ってそのままルーマニアに残るかどうか、心を決めかねている。
帰郷に際し、冷蔵庫の中に余っている材料で大量のスープを作ったシュテファンは、友人や近くに住む姉、世話になっている人たちに別れの挨拶がてら配り歩く。
そんなある日、森を散歩していた彼は、チャイナ・レストランで出会った中国系の女性シュシュ(リヨ・ゴン)と再会する。彼女は苔の研究者だった。
苔はそれ自体が森のように豊かな世界だと語るシュシュにシュテファンは響き合うものを感じ、ふたりの間にゆっくりと親密さが広がってゆく。
『ゴースト・トロピック』のあたたかさを引き継ぎつつ、より多様で複雑で親密な世界がつくられてゆく。シュシュがシュテファンに苔を手渡すくだりの、ひそやかな美しさ。シュテファンはシュシュと出会い、これまでとは別の世界をひとつ見つけた。彼にとっての「Here」はどこなのか。ドゥヴォスは映画の中でその答えを早急に求めない。
森の緑、雨の雫、スープの赤。この映画は、「ただ観る」という幸福を教えてくれる。
多言語、多文化国家で「ヨーロッパの縮図」と呼ばれているベルギー。この映画では、フランス語、ルーマニア語、オランダ語、中国語が使われている。私は多民族、多言語の映画がどうやら好きらしい。いろんなことをチェックしながら、もう一度ぜひ観たい。
監督:バス・ドゥヴォス
出演:シュテファン・ゴタ、リヨ・ゴン、テオドール・コルバン、サーディア・ベンタイプ ほか
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ゴースト・トロピック(2019年)
http://epoque.exblog.jp/29869358/
2024-02-06T21:39:00+09:00
2024-02-12T21:42:19+09:00
2024-02-12T21:42:19+09:00
shino_moon
映画(カ行)
まず『ゴースト・トロピック』から。
一日の仕事を終えて家路についた掃除婦のハディージャは、最終電車の中で眠ってしまい、気づいたら終点。戻る電車はすでになく、彼女は寒い冬の夜のブリュッセルを彷徨いつつ、さまざまな人と出会い、助けられたり助けたりしながら、自宅を目指す。
ハディージャは想像以上にアグレッシブで、「え!?」と思うような思い切ったことをする。でも、出会う人々が優しい、というか当たり前に親切で、あっさりと去って行く人もいれば、思わぬ交流が生まれたりもする。そのそれぞれの出会いと別れが、とてもいい。コンビニの店員も、凍えるホームレスも、彼の飼っている犬も、ハディージャにとってはそれぞれに気になり、関わり合う存在なのだ。
夜遊びをするわが娘を見かけたときのハディージャの反応も好ましかった。おそらく、娘の姿はかつての自分なのだろう。その距離感と心配のせめぎ合い。淡淡としているだけに、かえって心に響いた。
ストーリーが円環をなすかと思われたラストに着地せず、飛躍するところもいい。
しっとりした夜の質感は16ミリスタンダードサイズのまろやかな映像ゆえか。ギター中心の音楽もとてもよかった。
映画のチラシから、同じベルギーのシャンタル・アケルマンを連想していたが、シビアで、ときにワンダーなアケルマンの孤独な彷徨とは違って、人間的であたたかな感触が残る。
監督:バス・ドゥヴォス
出演:サーディア・ベンタイプ、マイケ・ネーヴェレ、シュテファン・ゴタ ほか
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哀れなるものたち(2023年)
http://epoque.exblog.jp/29869345/
2024-02-03T21:36:00+09:00
2024-02-12T21:38:24+09:00
2024-02-12T21:38:24+09:00
shino_moon
映画(ア行)
ヨルゴス・ランティモスは『聖なる鹿殺し』(2017年)『女王陛下のお気に入り』(2018年)の2本を観ているが、どちらもきわめて苦手な映画だった。3度目の正直のつもりで今回も観たが、やっぱり苦手だった。
という感想なので、ランティモスが好きな方、これから観ようと思う方はスルーされたし。
自殺した女性の肉体に胎児の脳を移植してつくられた人造人間ベラ(エマ・ストーン)の成長冒険物語。ベラを通して女性解放の歴史をなぞっている、というのが、この映画の解釈として多いようだけれど、私は「奇矯なるモンスター映画」だと思った。
たしかに、ベラがセックスを知り、読書を覚え、哲学を語り始めるあたりまではフェミニズムしぐさを感じたけれど、お金のために娼館で働き始めて「男性を支配すること」を覚えたあたりから怪しくなり、ラストで、彼女の肉体の持ち主を自殺に追いやった男に施した行為を見たときに、彼女は完全にモンスターになっていると感じた。
ベラは彼女を生み出した博士(ウィレム・デフォー)の跡を継ぐように「医者」になるが、そのたぐいまれなる知能と技術と酷薄なる意志で、彼女のための「王国」をつくったにすぎない。彼女に「残酷なる気持ち」を呼び起こす相手だと見なされれば、彼女の手によって改造されてしまう。動物に関して言えば、有無を言わさず(動物はしゃべれないからね)わけのわからないものにされてしまう。まさにすべてが「哀れなるものたち」で、タイトルには合致しているけれど、思想として、感情として気持ち悪い。
もちろん、ベラ自身も「哀れなるもの」なわけで、人間の知恵の末路、現代のめちゃくちゃな様相を皮肉っていると考えるならば、面白い映画だと言える。
でも、「モンスター誕生もの」としてはさほど面白いとも思わなかった。ベラに「人としての光」を感じる瞬間がついぞなかったからかもしれない。
監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー ほか
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SHARING(2014年)
http://epoque.exblog.jp/29840326/
2024-01-27T16:20:00+09:00
2024-02-01T16:22:21+09:00
2024-02-01T16:22:21+09:00
shino_moon
映画(サ行)
こういう単館系の邦画には、ときとして傑作が隠れているから油断できない。ふだんはあまり「傑作」という言葉を使わないようにしているが、これは傑作と言いたい。
大学で社会心理学を教えている瑛子(山田キヌヲ)は、東日本大震災で恋人を亡くして以来、震災の予知夢を見たという人の話の聞き取りをしながら、災害が人々の心に及ぼす影響を研究している。彼女自身も、恋人らしき人物が登場する夢を見ては目覚めることを繰り返している。
同じ大学の演劇学科の学生である翼(樋井明日香)は、卒業公演のための稽古を繰り返す毎日。震災にまつわる物語にかかわるうち、毎夜、震災に遭った女性になった夢を見るようになった。
夢、演劇、インタビューを何層にも重ねることによって、夢と現実と虚構が混じり合い、時間が混乱し、不安が増幅してゆく。震災・原発事故の影響が社会に浸潤してゆき、人心に残す不安に、斬新な方法でアプローチしている。全体のトーンはホラー映画に近いが、不安やトラウマと恐怖は、ほんとうに薄紙一枚で隣り合っているのだと実感する。
Blue-rayでの上映で、途中、7回もブラックアウトする誤作動が起こったが、上映後のお詫びがあるまで、そういう演出だと思っていた。期せずして不完全な上映に立ち会ってしまったのだが、それがまた逆に映画を印象的にしてくれるという僥倖。もちろんいつか完全な上映も観たいけれど。
ほぼ立教大学構内のみの撮影で、この展開と時間の広がり。瑛子のアップで終わるラストもすごい。
監督:篠崎誠
出演:山田キヌヲ、樋井明日香、高橋隆大、木村知貴、川村竜也、兵藤公美、鈴木卓彌 ほか
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彼方のうた(2023年)
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2024-01-24T16:18:00+09:00
2024-02-01T16:19:28+09:00
2024-02-01T16:19:28+09:00
shino_moon
映画(カ行)
昨今、杉田協士監督の名前をよく耳にするようになり、とにかく観てみようと昨年『春原さんのうた』(2021年)を観たのだけれど、感想が書けなかった。嫌いな映画ではなかったのだが、最後まで主人公がどういう人なのかがうまく掴めず、彼女がしていることに近づけなかった。「とりつくしまがない」とはあのことだ。あとであらすじを読んだら、「あ、そういうことだったの」と理解したが、そういうふうには見えていなかった。
最初からあらすじを読んで映画を観るのは私の性に合わないから、それをしなくちゃいけないのなら、その映画を観ない方を選ぶ。
今回『彼方のうた』を観るときも、前情報は入れないで、丸腰で出かけた。それで同じようにまるっきり近づけないのなら、杉田監督の映画はあきらめようと思っていた。
しかし、今回は冒頭から心をつかまれた。イヤホンでなにかを聴いている主人公の春(小川あん)。音が外に漏れないので、何を聴いているのか分からない。次のシーンで、春は、広場のようなところで腰掛けている雪子(中村優子)に、ある店への道順を尋ねる。一緒に店を訪ねたら定休日で、雪子は、別のところで一緒に食事をしようと春を誘う。
で、次のシーン。なんと、雪子の家で、ふたりは一緒にご飯を食べている。出会ったばかりの人の家に上がって一緒にご飯を食べるって、なんか変じゃないか?と思う。そんなこと、ふつうするだろうか? 春も雪子も少し変わった人だ。
と思っていたらまたシーンが変わって、春はある男性のあとをつけている。その男性・剛(眞島秀和)は花屋に寄って花を買い、そのまま自宅へ向かう。剛が家に入るところを見届ける春。なんだ、これは。後日、不審に思った剛が春の職場をつきとめて訪ねてきた。そのとき、初対面ではなかったことが春の口から明かされる。
春はなにか、この映像に描かれていない記憶を持っていて、それに導かれて行動している。なんとなくそれが分かった。
杉田監督の映画は、「観客に見えていない記憶」の映画なのかもしれない、とはっきり思ったのは、春がイヤホンで聴いている音がどこかの川の流水音らしいことが、春と雪子の会話で明かされたときだった。この音は春が録音したのではなく、録音を聞きながらこの水音の場所を探していたのだった。
それから、春、雪子、剛、剛の娘、春の演劇仲間の人たちなどとの交流と関係が描かれて行くが、「記憶」の核心は最後まで描かれない。イヤホンの中の水音も、最後まで外に漏れない。
いやむしろ、それがなにかをはっきりさせないまま、主人公の言動や人間関係で「記憶」の周辺を浮かび上がらせ、そこで生じる感情が、この映画の描きたいことなのかもしれない、と思い至った。
空白だらけといえば空白だらけ。でも、はっきりと描こうとすると、大なり小なりパターンにはめることになってしまう。杉田監督は、そうじゃない映画を撮ろうとしているのだろう。そう感じながら『春原さんのうた』を思いだしてみると、なんとなく近づけそうな気がしてきたのだった。
杉田監督の映画では、「音」が「記憶」にまつわる重要なモチーフだと思う。それを意識しながら、『彼方のうた』も『春原さんのうた』ももう一度観たい。
監督:杉田協士
出演:小川あん、中村優子、眞島秀和 ほか
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