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「4割」に捧げるゴダール

早稲田大学で映画のことを講義しているある映画批評家のブログに、こんなことが書いてあった。その日はヌーベルヴァーグについての授業だったので、ふと気が向いて、「ゴダールの映画を一本も観たことがない人」と尋ねたところ、クラスの4割ぐらいの生徒が手を挙げたという。

この数字そのものは、そんなに驚くものではない。早稲田で映画の講義を受ける学生がみなシネフィルだとは思わないし、ましてや、映画ファンはなべてゴダールを観るべきだ、とも思わない。観ているのがクラス全体の6割という数字が、一般的な映画ファンの感覚からして多いのか少ないのかも、よく分からない。それに、その質問は「一本でも観ていればOK」なのだけれども、厳密に言えば、一本観ただけではゴダールを観たことにはならない。

というわけなのだが、なんとなく、やっぱり、しっくりとこない。映画ファンならゴダールぐらい観るべきだ、と言いたいのではない。映画の授業を受けたいと思うような彼らが、どうして、それまでにゴダールを観たいと思わなかったのだろうか、ということなのだ。映画が好きで、情報に触れると、興味が湧く。観たいと思う。それは当然のことだ。ましてや、DVDで簡単に映画を見ることができるこのご時世。そして、ゴダールというのは、映画学をなんとかしようと思うような人たちにとっては、外せない映画監督なのではないのか、と思うわけである。それは、ゴダールが好きか嫌いか、という問題以前の問題だと思うのだ。

12,3年前、古くからのシネ友がつぶやいた一言が思い出される。「最近の若いヤツらって、ゴダールのことファッションだと思ってんだよな。ゴダールってオシャレ!とか、アンナ・カリーナかわいい!とかさ」
でもそれはしょうがないんじゃないかな、と私はそのとき思った。なんであれ、世に出た作品がどういうテキストとして人に受容されるかは、時代によって変化する。それはもうしょうがないよ。しょうがない。若者を嘆いた彼だって、かくいう私だって、『勝手にしやがれ』も『気狂いピエロ』も『軽蔑』も『はなればなれに』もリバイバルでしか観ていないわけだし。その時点で、封切りで観た人たちとはもう観る環境も意味も違っているわけだし。それに、ほんとはゴダールよりトリュフォーの方が好きだし。

でも、それと、早稲田の映画学の授業の「4割」の話とは、少し違うような気がする。例え「ファッション」としてであったとしても、映画はまず観られなくてはなにも始まらないのだ。もちろん、ゴダールなんか知らなくても映画は充分楽しめる。けれども、そういうことが映画ファンの当たり前になってしまうと、過去の映画を観る人はどんどん減り、そして、映画というものの性質として、観る人が減ると、その映画は上映されなくなり、メディアは絶版となり、観ることそのものが非常にむずかしくなる。そうやって、過去の映画が失われてゆくことが、怖い。商売になるかどうかが映画の死活基準になってしまっては、どうしようもない。

だから私は、映画史とか映画論とかいうものに、がんばってもらいたいとじつは思っている。例えば、「4割」の人たちがゴダールを観たいと思うようにゴダールのことを話せる人を、映画批評の現場で育てて欲しい。そういう事柄が健全に語られている限り、古今東西の名画は観られ続けると思うから。私が、ムダにクリント・イーストウッドのことを話し続けるのも、それでもって彼の映画を観てくれる人がひとりでも増えればいいな、という切なる願いがあればこそ、なわけです。

だって、映画が『世界の中心で愛をさけぶ』とか『恋空』とか『ごくせん』とか『ルーキーズ』みたいなのばっかりになるのは(そういうのもあっていいけれども)、やっぱりイヤだもん。
by shino_moon | 2009-07-29 22:27 | 映画(雑) | Comments(0)


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