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小鳥来る

『週刊俳句』の1月31日号に載った、田中裕明の「夜の形式」に、ずっと囚われている感じがする。

http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/01/blog-post_31.html

ほんとうに不思議な文章だ。ここでは、「夜の形式とはなにか」ということが説明されているわけではない。というか、なにも説明されていない。田中裕明の思考の流れを、あまり手を加えずにそのまま文章にしたような印象を受ける。螺旋を経巡っているようでもあったり。結論に向かって閉じていないのだ。
で、泉鏡花や内田百閒の小説を思い出したりしたのだけれど、もうひとつ、わりに最近に観たジャームッシュの『リミッツ・オブ・コントロール』が頭に浮かんできた。

好きだなあ、こういうの。だいたい、〈夜の形式〉という言葉そのものが、めちゃくちゃいい。

というわけで、このところ、『田中裕明全句集』を少しずつ再読している。
この人の俳句は、ものを見てつくられているのだけれど、〈客観写生〉というのではない。強い言葉やものすごく言いたいことで構成されているわけではないのだけれど、なにも言っていないわけではない。
そうしたアプローチのことを、田中裕明自身は〈ポエジー〉と言っていたようだ。その言葉が適切かどうかはおいておくとしても、彼が詠もうとしていたことは、生きている世界の〈あわい〉のようなところだったのではないかという気がする。なんでもないことのようで、実際の生活の場面からはちょっとずれているような。

  秋の蝶ひとつふたつと軽くなる
  麦笛のすこしもかはらない人よ
  姉の音妹の音夜は長し
  よく見ればみな人の顔おぼろ夜は
  人生に小鳥来ること少なしや
  亡き人の兄と話して小鳥来る
  小鳥来るここに静かな場所がある

〈小鳥来る〉は彼がよく使っている季語なのだけれど、不思議な言葉だ。この季語、「夜の形式」の中に書かれている〈時間の久しさ〉への手がかりになるかもしれない、と思ったりする。
by shino_moon | 2010-02-20 01:29 | 俳句 | Comments(0)


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