人気ブログランキング | 話題のタグを見る

トウキョウソナタ(2008年)

黒沢清の映画は、頑ななまでに叙情的であることを嫌がる。叙情的、すなわち「メロ(ドラマ)」であることは物語のあり方としてはごく一般的で、実際、大団円に向かって人物の感情を落とし込んでゆくことによって、観客は感動する。それを、たぶん「あえて」しないわけだから、永遠に一般受けはしない。

でも、その代わりというべきか、観客は黒沢映画によってまったく別の体験をする。外界に向かっている意識がゆらいで、根源的な何かに触れてしまう。それはたとえば、生まれて初めて映画を観た人間が、スクリーンのなかを走ってくる機関車の存在感におののいた、というような態のもので、多くの現代人にとってはバカバカしいものかもしれないが、たぶん、究極の映画体験というのは、そういうところにあるのだと思う。

「家族」というなじみ深い題材でつくられた『トウキョウソナタ』は、そんな黒沢映画の中ではとっつきやすい一本だ。それぞれに悩みを抱えている夫婦と二人の息子。夫がリストラされ、少しずつ壊れてゆく家族。

けれども、「家族の崩壊と再生」といったような物語のパターンに当てはめて観ようとすると、簡単にはぐらかされる。夫(香川照之)は、家族の前で虚勢を張り、リストラされたことを隠し続ける。世の中を憂える長男は、国外からも兵士を募り始めた米軍に従軍志願し、合格してアメリカへ行ってしまう。ピアノ教師に恋をし、両親に隠れてピアノを習い始めた次男は、とてつもない音楽の才能を見いだされる。そして、つつましく家庭を守ってきた妻(小泉今日子)は、ある日押し込み強盗(役所広司)に拉致され、とんでもない行動に出る。

およそ「リアル」とは言えない設定の連続に、慣れない観客はたちまち置いてきぼりを食うだろう。なにより、この映画の中の街は、いったいどこなのか。タイトルから推測するにたぶん「東京」であるはずのこの街がいっこうに東京らしく見えない、それどころか「どこの街にも見えない」というのは、観客の追憶(=叙情)を阻む何かが働いているからにほかならない。職場を失った夫が並ぶ浮浪者のための炊き出しの列も、長男が友人とオートバイを相乗りして疾走する夜の街もどこか国籍不明で、ゴミ置き場から次男の拾ってきたキーボードは、どんなに鍵盤を叩いても音がしない。その無音。

そんな場所に、小泉今日子が生々しく佇む。「小泉今日子」というある種アイコンのような存在であったはずの彼女が、妻として母として、女として鮮やかに観客を圧倒するのは、もしかしたら、彼女の立っているところが「名前」をはぎ取られた、どこにもない場所だからではないのか。

この無名性は、映画のラストまでつづく。風もないのに揺れるカーテン、ピアノの周囲にぞろぞろと人が集まってくるそこは、やはりどこにもない場所で、そんな空間にドビュッシーの叙情的なメロディが流れる光景は、もはや、映画という「嘘」を終わらせるための監督のユーモアだとしか思えず、ただ、ひっそりと笑うしかないのである。

監督:黒沢清
出演:香川照之、小泉今日子、小柳とも、井之脇海、井川遥、児島一哉、津田寬司、役所広司 ほか


by shino_moon | 2019-07-02 21:47 | 映画(タ行) | Comments(0)


<< クリムト展 旅のおわり、世界のはじまり(2... >>